「福くんの大冒険」と「歴史の源流・出雲 第3弾」

島根を扱ったテレビ番組を2つ。

「絶景!絶品!はじめての旅 福くんの大冒険スペシャル(仮)」

島根県公認ポータルサイト「しまね はじまり通り」と連動したテレビ番組。

しまねはじまり通りにある骨とう品店「ルーツ堂」を舞台に、店主(津川さん)と少年(福くん)が行う、「いろいろな物事のはじまり」についての会話を軸に進められていくドラマ仕立ての情報バラエティ。

「ニッポンのはじまり」について興味を持つ福くんに、数々のモノ、コトの「はじまり」が生まれた場所である「島根」をニッポンのルーツとし、島根について店主が優しく分かりやすく教えていく・・・という番組。

【 放 送 】

■フジテレビ・山陰中央テレビ
10月10日(月・祝) 15時25分~16時25分放送予定

■BSフジ
10月16日(日) 12時00分~12時55分放送予定

【 出 演 】

津川雅彦さん、鈴木福くん、はしのえみさん、
大久保佳代子さん(オアシズ)、ユージさん

『絶景!絶品!はじめての旅 福くんの大冒険スペシャル』(仮) – とれたてフジテレビ

続きまして…

「古代ロマン 歴史の源流・出雲~古事記に秘められた謎を探る~」

こちらは「歴史の源流・出雲」シリーズ第3弾。

松江市出身で神話や古代史にも深い関心を持つ佐野史郎さんと、神話が生きている出雲の風土と古代ロマンに惹かれたという三浦奈保子さんの二人の旅人が、大国主神の神話を紐解きながら「縁」の地を訪ね、古代出雲の真実に迫る番組。

【 放 送 】

■毎日放送(関西)・テレビ山口(山口)
10月10日(月・祝) 9時55分~10時50分放送予定

■山陰放送(山陰)・あいテレビ(愛媛)・テレビ高知(高知)
10月9日(日) 14時00分~14時55分放送予定

■中国放送(広島)
10月10日(月・祝) 10時05分~11時00分放送予定

■山陽放送(岡山・香川)
10月9日(日) 15時00分~15時55分放送予定

■BS−TBS
10月16日(日) 14時00分~14時54分放送予定

【 出 演 】

佐野史郎さん、三浦奈保子さん

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コメント

全16件
  1. 山陰旅行ルート研究家(古事記1300年) より:

    島根県の白兎海岸での白ウサギの話のあと、オオクニヌシの神は、八十神にいじめられたあたりが鳥取県南部町の赤猪岩神社だとのこと。その後、根之堅洲国と言われる島根県の安来の須賀神社あたりでスサノオの神の試練をうけ、黄泉比良坂のある松江市をとおり、出雲大社に向かったという。こういったオオクニヌシの神の移動経路をつたった観光ルートも一興だと思います。

    • TKC より:

      こんにちは。コメントありがとうございます。
      鳥取と島根が一緒になって、雲伯地域でそういうルートを設定したら面白いですね。

  2. 欽明天皇の御代の八幡宮 より:

     私地元なので、その神社知っています。ネットで検索したところ、須賀神社は富田八幡宮というお宮さんの摂社みたいですね。その祭神が最近、ネットでもスサノオと似ていると言われる応神天皇だったのには驚きました。さらに、八幡宮として最も古いとされている宇佐八幡宮よりも創立が1年早いことにも驚かされました。こんど休みの日にでも、行ってみようかなと思いました。

    • TKC より:

      こんにちは。コメントありがとうございます。
      須賀神社なのに応神天皇?って思いましたが、八幡宮の摂社だからですかね。ただ古いとはいっても八幡信仰の時代でしょうね。

  3. 幡人 より:

     しかし、古事記と言うものはどこから史実として考えればいいのか不思議な読み物ですね。気の強い女房が子供を残すという逸話が、伊邪那美、沙本毘売と神功皇后にも現れ、交響曲の変奏のような音楽性をもった文学だとつくづく思う。だからきっと、神話時代の話は神武天皇以降の歴的時代の中をも浸食し史実としては脚色されているのかもしれない。神武や崇神、応神天皇においてもそんなかんじかな。そういった音楽性が減衰してゆく地点に応神天皇がいることもあって、歴史家はそこから物を考えたほうがいいとも考えているのは、あるいみ合理的なんじゃないのかなとも思います。
     もっというと日本の文学には音楽性が付きまとい、そのため短詩形文学が発達し、スサノオの始めたという和歌、芭蕉が始めた俳句、都都逸なんかもそれに入り短い文章の調子の良さ(音楽性)と共鳴性(韻をふむ、ダジャレ、おやじギャグ)などの世界的に類例のない発達を遂げたと思います。

    • TKC より:

      神武・崇神・応神は一人の人物だとする考え方もありますもんね。完全に史実と一致はしないにしてもある程度根拠のある物語なのかなとおもってます。

  4. 賀茂糺 より:

     最近、根之堅洲国の議論に人気がありますね。

  5. 浦安来生 より:

     まあとにかく藤岡大拙先生の話は、島根県外ではブーイングが多い、出雲国風土記イズムを感じさせますよね。今年の古事記のお話につなげるのはどうなんでしょうかと思いたくなります。

  6. 島根旅行人 より:

     安来と言えば和鋼博物館と足立美術館に行ったことがあります。刀剣がいっぱいあり感動しました。美術館のほうは物凄く美しい日本庭園があり絵画の感動に匹敵するものでした。

  7. 日産 より:

     このまえ真っ白い豪雪をたたえた金屋語神社の横をとおりぬけ鳥上(鳥髪)のたたら場に日立金属の関係者といってきました。ものすごく貴重な体験で、宿泊先の玉峯山荘も素敵でした。

  8. 十神山 より:

    大刀学の権威、久保田博士らが古墳時代の刀剣の刀剣がマルテンサイト結晶だったことを報告されていますよね。素晴らしいと思いました。

  9. ナノベアリングファン より:

     その方、日立金属のSLD-MAGIC(S-MAGIC)というスーパー工具鋼を開発した方でしょう?大刀学は良くわかりませんが、その素晴らしいナノテクノロジーの技術が結晶化された自己潤滑性能はいろんな分野で絶賛されているようですね。

  10. 粉末冶金屋 より:

     それにしても日立金属製の高性能冷間工具鋼SLD-MAGIC(S-MAGIC)の自己潤滑性の評価が高い。塑性加工金型のカジリを防ぐメカニズムが最近わかったようで、摩擦面に自動的にナノベアリング状の結晶が生成されるとのこと。耐かじり性の指標であるPV値も通常の鉄鋼材料の6倍と世界最高水準と報告されている。
     これはどういうことかというと、例えば自動車のエンジンや動力伝達系部品のしゅう動面積を1/6にすることを意味し、大幅な軽量化による低燃費化が期待できることを意味している。トライボロジー技術にはまだまだ発展する未知が多いように思われる。

  11. 匿名 より:

     さすが、天皇陛下のゆかりの地。ただし出自はかなり歪曲されて記紀などにいるとする主張はいかがなものか。様々な王権論を読めばよい。これは現代の三権分立に繋がる、思想が古代人にもあった。つまり自己撞着的権威は維持できず、そこで神話や語部が第三者として権威を批評価する者が必要だったようなことが言われ、その語部の最も最古でビビッドな文言が出雲国風土記の意宇郡安来郷の物語に残っていたりもする。
     王権の絶対性はそもそも中世以降、欧州で盛んに言われたことであるが、日本の天皇は絶対性でくにを統治しないという流れが保たれた。絶対を宣言すると、絶対の根拠となる定義が必要になる。それは神を絶対視するカトリックから逃れたい欲求であり、それはマルチンルターが中国から伝わったという活版印刷のニューテクノロジーを利用して協会権威を切り崩した直後といってもいい歴史思想上の流れで起こっている。すなわち、印刷という当時あたらしいメディアで証拠も残さず市民を蹂躙することに成功したことをもって古代ローマに匹敵する強権が蘇ったかのように当時のヨーロッパ人の感想だったのではないか?
     EUはインターネットというメディア革命を組織的に取り込もうとした。
     じつは日本の明治維新も似たような側面があって、理由は知らなくても貧乏でもこの統一国家の成立を無邪気に喜んだという論評は司馬遼太郎の「坂之上の雲」に書き記している。
    EUも坂の上の雲を色々と目指してきたが、日本における明治期の無邪気な慶びはなかなか浸透しなかったのではないか。とにかく、EUやTPPなどはすべて司馬遼太郎が活写した明治期の日本に憧れて制度設計をしようとしている節がある。
     

  12. 三浦祐之 より:

     古代日本において王権という場合に、天皇制が唯一の王権であるとして、王権論は天皇制の問題として論じられることがほとんどである。あるいは、天皇制は日本の特殊な制度としてあり、王権とは区別すべきだというふうに論じられることもある。その場合には、どこがどのように本質的に違うのかということを厳密に論じてゆく必要があるわけで、ここではその問題を措いていえば、古代天皇制の基本的な構造は一般的な王権と同じものだったはずだと認識してよいのではないかと考えている。もし天皇制が他の王権と違うとすれば、古橋信孝がいうように、「この世におけるさまざまな責任から免れうる位置」に立つための「祓え」という祭祀体系をもったことなのかもしれない(「王権と天皇制」)。しかし、すでに王権の段階で、具体的な祭祀実行者である巫者と王とが分離し、王が血筋によって継承される存在であったとみれば、そうした体系は何らかの形で、すでに王権の段階にも現れていたはずなのである。
     古代国家の統一により天皇は唯一の支配者となり、それぞれの在地豪族たちは古代天皇制のなかに組み込まれていったのだが、それ以前には、彼らもまた王あるいは首長として存在していた段階があったはずで、天皇制こそが古代日本の唯一の王権であったと考えるべきではない。そうでありながら、我々が目にすることのできる文献、記紀や風土記によると、すべての民や土地は天皇家に隷属するものとして整序され、唯一の歴史であるところの天皇家に隷属する存在として中央や地方の豪族たちはいる。古代天皇制はそれだけ強固な制度を確立していたということになるのだが、それでも、注意深くみてゆけば渾沌とした前代が見えてくるのである。
     いうまでもないことだが、王権が確立し存続し、王あるいは天皇が恒久的な支配権を保証されるためには、その制度を支えるための構造をもたなくてはならない。それは、具体的には、神話をもつことであり、シンボルとしての神宝をもつことであり、血筋を保証する系譜をもつことであり、人々の生活を可能にする呪的な力能をもつことであった。
     始源的な共同体にその共同体を統括する者が発生する段階を想定していえば、その統括者は、首長としての権力を持つとともに呪力を行使できる者だったはずである。つまり、首長=シャーマンであることが共同体を統括する力だったのであり、その首長が王になる段階が、王権の発生する時であった。そして、そこで王とシャーマンの役割は分離し、両者は別の存在になってゆくのである。
     王は、天皇の場合もそうだが、王権の成員一般とは区別された存在でなければならない。だから、多くの場合に王は神の子として幻想されてゆく。神に繋がる者であることにおいて、王あるいは天皇は存在自体として擬制的な共同体=国家を統括する力をその内部に保証されるのである。王あるいは天皇が宗教的な存在であるのはそのためである。そして、その王の力は、具体的には神話や系譜や神宝によって示される。どのような神から生まれ、どのような歴史によって王となり、代々の王はどのように繋がり、他の人々とはどのような関係性をもつかというふうな秩序が、系譜や神話として語られるのである。それが共同体全体の成員にとって確かな幻想になるために、神話や系譜は語り継がれなければならず、そこに、語部という制度化された存在が要請されてくる。語部は、王と分離された巫者的存在であった。彼らは人間の言葉ではない神の言葉を、神の立場で伝えることのできる力をもたなければならないのであり、だからこそ巫者的な存在でなければならなかったのである。たとえば、出雲国風土記意宇郡安来郷条にみえる語臣一族は、そうした王権に隷属する語部の性格をよく示している。
     また、神宝は人である王が神の子孫になるための呪具であり、語り継がれる神話や系譜の事実性を保証するための証拠である。天皇家に受け継がれる三種の神器だけが神宝だったのではない。日本書紀の崇神天皇六十年条・垂仁天皇八十八年条あるいは肥前国風土記彼杵郡・豊後国風土記速見郡などに、もともと王として存在していたであろう在地豪族が自らの神宝を天皇に献上するという伝承が伝えられており、その背後に古代王権の存在が暗示されている。そして、それらの神宝献上譚は、前代の王権が天皇制のもとに吸収解体されてゆく、その象徴的な神話であった。また、諸国の語部が古詞を奏上する天皇の即位儀礼としての大嘗祭は、それらの王権がもっていた神話や系譜を捧げて天皇への服属を誓うための神話的な場でもあったのである。
    〔参考文献〕古橋信孝「王権と天皇制」(現代のエスプリ別冊『天皇制の原像』至文堂 一九八六年)、三浦佑之「王権の発生」(同前書)、赤坂憲雄『王と天皇』(筑摩書房 一九八八年)

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