熊野大社

せっかく熊野大社をTOP画像にしたので、熊野大社の紹介です。
熊野大社
熊野大社(くまのたいしゃ)は島根県松江市八雲町にある神社。
火の発祥の神社として「日本火出初之社」とも呼ばれ、出雲国一宮である。
(出雲大社も一宮)
祭神は「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」で、一般的には素戔嗚尊(スサノオ)の別名。
意宇六社の一つ。(熊野・神魂・揖夜・真名井・八重垣・六所)
熊野大社
“熊野神社”というのは全国各地に約3,000社もあるんですが、
これらは世界遺産として有名な南紀和歌山の熊野三山が総本山。
出雲の熊野大社は「出雲国風土記(733年)」にその名があるほど古いもので、熊野三山系とは別物です。
ただ、熊野大社に残る由緒書きによれば、和歌山の熊野三山は出雲の熊野大社から勧請された、すなわち熊野三山は出雲にルーツがあるとする説があるそうです。
熊野大社
さて、現在では完全に出雲大社のほうが有名ですが、実はもともとはこの熊野大社の方が「筆頭」とされていました。
出雲大社の出雲国造家は、本来この熊野大社の祭祀を行い、その周辺の意宇郡に勢力を持つ氏族でしたが、その出雲国造家が出雲大社方面へ本拠地を移したため、出雲大社のほうがランクが上がったものと考えられます。
現在も行われている「鑚火祭(さんかさい)」という行事に、出雲大社と熊野大社の関係を見ることができます。

鑚火祭(さんかさい)
熊野大社の鑚火殿に収納されている“火鑚臼”と“火鑚杵”。
出雲大社ではこれをつかって新嘗祭(にいなめさい)の食事の調理に使われる神聖な火を熾すんですが、この火鑚臼と火鑚杵を出雲大社に貸し出す神事を「鑚火祭」といいます。
出雲大社から神職が火鑚の臼と杵を借りる代償として巨大な餅を持参し、納めようとすると熊野大社側の“亀太夫”と呼ばれる神職が「餅の出来が悪い」と難癖を付けます。
最後には亀太夫は承知して餅を受け取り、出雲大社からの使者はかわりに火鑚の臼と杵を受け取るという神事です。

熊野大社の亀太夫は一方的に出雲大社からの使者に文句を言い、
出雲大社の神職はひたすら承るという体裁をとります。
明らかに熊野大社が優位。昔のなごりかな。

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コメント

全7件
  1. ミッシー より:

    そんな神事があるんですね!
    こんな風に解説してもらうと良く分かるし面白いですね...神職も普通の人なんだ..(^_^;)

  2. TKC より:

    はい、らしいです。
    あまり知られてないですよね。

  3. まつ より:

    熊野大社について調べていたら、たどりつき読ませて頂きました。
    ありがとうございます。
    先日、大社に行きましたら、大変興味深かったもので(笑
    コメント失礼しました。
    他の記事も、読ませて頂きますね。

  4. TKC より:

    コメントありがとうございます。
    駄文拙文ですがよろしければ読んでって下さいm(__)m

  5. 柳瀬 より:

     熊野大社は出雲の奇跡、安来の社日桜は春の奇跡となんとか永井ヒョウサイ(字は分からず)とかいうひとが戦前に出雲風采という評論で述べていました。

  6. TKC より:

    >柳瀬さん
    「出雲風采」初めて聞きました。古代の歴史を紐解くのに、近代書というのは重要らしいですね。
    社日桜は安来節のアレですね。出雲の奇跡とは熊野大社の社殿のことでしょうか?

  7. とくちゃん より:

    主に大元出版の情報による熊野大社の亀太夫神事
    →旧東出雲王国滅亡(~紀元250年頃)後、東出雲王家(富家)は、現熊野大社エリアに屋敷を構え、邸内社を建てたそうです。それが発展したのが旧熊野大社だそうです。
    旧と敢えて付けたのは、現在のそれは当時の面影は・・・状態だと思うからです。(祭神も国造家の推す、徐福・スサノオなどではありませんでしたし、国造家が奈良時代に旧王家に無断でねじ込んだクシミケヌ(中国の社稷の神)も関係ありませんでした。
    ただし祭神は表記だけが変更されたのか、そっくり中身も変えられたのかは、私としては知るすべはありません、ここの神社に限った事ではないですが。
    由緒正しい他のとある古社でも、実は大昔複数回焼き討ちされ、旧出雲王国時代はもちろん、後の物部王国時代のも残っていないとの情報を得ています。)
    創建当初は、旧東出雲王家の御先祖の八重波津身王(コトシロヌシ)や古代日本の最高神 大祖先のサイノカミ三神(父クナトノ大神、母サイヒメノ命、息子サルタヒコ大神)だったそうで、宮司も東出雲王家(富家)が務めていました。
    紀元前220年頃、隣国の秦国より渡来、移住して来たホヒ国造家。
    以後400年以上に渡る、数えきれないほどの裏切り行為に対し、
    出雲王家がホヒ国造家をしかりつける訳です。
    しかし現在の神事の内容も、本来の百番の 伏拝礼が舞になり、さらに短縮されて百番が五十番に変えられました。
    本来の趣旨からしたら、何一つ変更してはならないのではないでしょうか?(裏切り行為による尊い2王の死、機密情報を敵に漏洩し出雲王国滅亡へ追いやる・・・・・・・・、などの数々の裏切り行為を戒める。)
    どうも現在の権力者側は、観光化に重きを置いているように思えますね。
    たしかに元の百番の伏拝礼では、観光客も退屈過ぎてとか時間の都合でとかの理由で帰ってしまうかもしれません。ほとんどの観光客はこの後の亀太夫さんの苦言・文句などを目当てにしていると言っても言い過ぎではないと思います。
    苦言も10数年前の時点で、もっと何十年か古い時代より、比較にならないほどや~さしい内容に変えられています。
    また徐々に都合の良い様に変更されてきているようです。
    本来の趣旨は、
    旧出雲王家側がホヒ国造家側の数々のとんでもない裏切り行為を戒めるというものです。
    ここに着眼し、こだわっている人がほとんどいない・極端に少ないというのは、大変嘆かわしい事だと思います。 
    (※一般には情報操作で伏せられているので、仕方がないのかもしれません。)
    ※大元出版の本は旧出雲王国の2王家(富王家、神門臣王家)側の情報です。
    (参)大元出版 山陰の名所旧跡 の140・141ページに熊野大社の事が載っています。

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